親鸞聖人の著書「教行信証」を解説しました。 栗田正弘
第一編 総序
大変有名な文です。浄土真宗のエキスが全て入っています。毎日声に出して読んで覚えましょう。
竊(ひそ)かにおもんみれば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度(ど)する大船(だいせん)、無碍(むげ)の光明(こうみょう)は無明(むみょう)の闇(あん)を破する恵日(えにち)なり。しかれば則ち、浄邦縁熟(じょうほうえんじゅく)して、調達(じょうだつ)・闍世(じゃせ)をして逆害を興(こう)ぜしむ。浄業機彰(じょうごうきあら)わして、釈迦・韋提(いだい)をして安養(あんにょう)を選ばしめたまへり。これ乃ち権化(ごんけ)の仁(にん)、済(ひと)しく苦悩の群萌(ぐんもう)を救済(くさい)し、世雄(せおう)の悲(ひ)、正(まさ)しく逆謗闡提(ぎゃくほうせんだい)を恵まむと欲(ほっ)す。
かるがゆえに知んぬ、円融至徳(えんにゅうしとく)の嘉号(かごう)は、悪を転じて徳を成す正智(しょうち)、難信金剛(なんしんこんごう)の信楽(しんぎょう)は、疑いを除き徳を獲(え)しむる真理なりと。しかれば凡小修し易き真教、愚鈍(ぐどん)往き易き捷径(せっけい)なり。大聖(だいしょう)の一代の教、この徳海にしくなし。穢(え)を捨て浄を忻(ねが)ひ、行に迷ひ信に惑(まど)ひ、心昏(くら)く識(さと)り寡(すくな)く、悪重く障(さわ)り多きもの、ことに如来の発遣(はっけん)を仰ぎ、必ず最勝(さいしょう)の直道(じきどう)に帰して、専らこの行に奉(つか)へ、ただこの信を崇(あが)めよ。
ああ弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)、多生(たしょう)にももうあひがたく、真実の浄信(じょうしん)、億劫(おくこう)にも獲(え)がたし。たまたま行信(ぎょうしん)を獲ば、遠く宿縁をよろこべ。もしまたこのたび疑網(ぎもう)に覆蔽(ふへい)せられば、更(か)へてまた曠劫(こうごう)を逕歴(きょうりゃく)せん。誠なるかな、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の真言(しんごん)、超世希有(ちょうせけう)の正法(しょうほう)、聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ。ここに愚禿(ぐとく)釈の親鸞、慶(よろこ)ばしいかな、西蕃月支(せいばんげっし)の聖典(しょうてん)、東夏日域(とうかじちいき)の師釈に遇いがたくして今遇うことを得たり、聞き難くして已(すで)に聞くことえを得たり。真宗の教行証を敬信(きょうしん)して特に如来の恩徳深きことを知んぬ。ここをもって聞くところを慶び、獲(う)るところを嘆(たん)ずるなりと。
(意訳)私なりに考えて見ると、思いもはかる事の出来ない阿弥陀仏の本願は、渡ることの出来ない迷いの海を渡して下さる大きな船であり、何物にもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破って下さる智慧の輝きである。ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多(だいばだった)が阿闍世(あじゃせ)をそそのかして頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)を害させたのである。そして浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提希(いだいけ)をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。これは、菩薩方が仮の姿をとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来が慈悲の心から、五逆の罪を犯す者や仏の教えを謗(そし)るものや一闡提(いちせんだい)のものを救おうとお思いになったのである。
よって、あらゆる功徳をそなえた名号は、悪を転じて徳に変える正しい智慧の働きであり、得がたい金剛の信心は、疑いを除いてさとりを得させてくださるまことの道であると知ることができる。
このようなわけで、浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、愚かなものにも往きやすい近道なのである。釈尊が説かれたすべての教えの中で、この浄土の教えに及ぶものはない。
煩悩に汚れた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、行に迷い信に惑い、心が暗く知ることが少なく、罪が重くさわりが多い者は、とりわけ釈尊のお勧めえお仰ぎ、必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、ひとえにこの行につかえ、ただこの信を尊ぶがよい。
ああ、この大いなる本願は、幾たび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いかけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。如来の本願の何とまことであることか。摂めとってお捨てにならないという真実の仰せである。世に越えてたぐいまれな正しい法である。この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。
ここに愚禿釈の親鸞は、よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞き難いのにすでに聞くことができた。そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ、如来の恩徳の深いことを明らかに知った。そこで、聞かせていただいたところをよろこび、得させて頂いたところをたたえるのである。
第二編 顕浄土真実教文類
浄土真宗の真実の教とはいかなるものかを明らかにしていきます。)
◎まず浄土真宗とは何かを端的に示す。
謹按浄土真宗、有二種廻向 一者往相、二者還相
就往相廻向 有真実教行信証
謹んで浄土真宗を案ずるに二種の回向有り。一つには往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)なり。往相の回向(えこう)について真実の教行信証(きょうぎょうしんしょう)あり
◎根本教典を示される。
夫顕真実教者則大無量寿経是也
それ真実の教を顕さば、則ち大無量寿経是なり
◎無量寿経の大意を話される。
阿弥陀仏はすぐれた誓いをおこされて、広くすての人々の為に法門の蔵を開き、愚かな凡夫を哀れんで功徳の宝を選び施され、釈尊はこの世にお出ましになり、仏の教えを説いて、人々を救い、誠の利益を恵みたいとお思いになったと言うことである。
説如来本願為経宗致即以仏名号為経軆
如来の本願を説いて経の宗致(しゅうち)となす。即ち仏の名号もって経の軆(たい)となするなり
(意訳)そこで、阿弥陀仏の本願を説くことをこの経のかなめとし、仏の名号をこの経の本質とするのである。
◎大無量寿経が何故、出世本懐(しゅっせほんがい)の経であるかを述べる
まず、阿難(あなん)が、お釈迦様が、今日は、いつもと違う光顔巍巍(こうげんぎぎ)としたお顔をされていて五徳瑞現(ごとくずいけん)という尊い相が現れているという。きっとすばらしい説法をされる準備にちがいありませんと聞かれる。
それに対して、「よく問うくれた。阿難よ、お前が今、問うたことは、実に私の心にかない、甚だ喜ばしく思う。」と言われ、そして答えられた。
所以出興於世光闡道教欲拯群萌恵以真実之理
世に出興(しゅっこう)するゆえんは、道教を光闡(こうせん)して群萌(ぐんもう)を拯(すく)い恵むに真実の理をもってせんとおぼしてなり。
(意訳)「釈迦が世にお出ましになったわけは、仏の教えを説き述べて、すべての人々を救い、まことの利益を恵みたいとお考えになられたからである。」
(解説)
この句が、大無量寿経が出世本懐(しゅっせほんがい)の経である拠りどころとなるのである。
法華経では「ただ一大事因縁あるが故に世に出現する」とか「四十余年未だ真実を顕さず」という句があり、それが出世本懐の経である証拠としている。しかし、宗教的に出世本懐が論ぜられる場合、
第一にそれが真実である事と共に、
第二にそれが一切衆生の救済に役立つものでなければならない。
どんなに真実が説いてあるすばらしいお経でも、愚鈍なものも含めてすべてが、救われなければ、本当の救済とは言えない。
仏は、そのような愚鈍な者のために浄土を勧められたのである。それは、水におぼれようとするものは急に救う必要があるが、岸におるものをあえて急に救う必要がないのと同じである。
釈迦が、この世に出現したのは五濁の凡夫をこそ救わんが為である。だから、大無量寿経こそが出世本懐の経であると主張されるのである。
◎教巻を結ばれる
如来興世之正説 奇特最勝之妙典一乗究竟之極説 速疾円融之金言十方称讃之誠言 時機純熟之真教
(意訳)無量寿経は、如来が世にお出ましになった本意を示された正しい教えであり、この上なくすぐれた教典であり、すべてのものにさとりを開かせる至極最上の教えであり、速やかに功徳が満たされる尊い言葉であり。すべての仏がたが、褒め称えておられるまことの言葉であり、時代と人々に応じた真実の教えである。
第三編 顕浄土真実行文類
(浄土真宗の真実の行とはいかなるものかを明らかにする文類である。)
◎大行とは、何かを述べる。
謹みて往相回向を按ずるに大行あり大信あり。大行は則ち無碍光如来の名を称するなり。斯の行は即ちこれ諸の善法を摂し、諸の徳本を具せり。極速円満す。真如一実の功徳宝海なり。故に大行と名づく。然に斯の行は、大悲の願より出たり。即ち是、諸仏称揚の願と名づけ、復、諸仏称名の願と名づく。復、諸仏咨嗟の願と名づく。往相回向の願と名づくべし。亦、選択称名の願と名づくべきなり。
(意訳)つつしんで往相の回向をうかがうと、大行があり、大信がある。大行とは、無碍光如来(むげこうにょらい)の名号(みょうごう)を称えることである。この行は、あらゆる善をおさめ、あらゆる功徳をそなえ、速やかに衆生に功徳を円満させる、真如一実の功徳が満ちみちた海のように広大な法である。だから大行というのである。ところで、この行は、大悲の願(十七願)から出てきたものである。それで、この願を諸仏称揚(しょぶつしょうよう)の願と名づけ、また、諸仏称名(しょぶつしょうみょう)の願と名づく。また、諸仏咨嗟(しょぶつししゃ)の願と名づく。また、往相回向の願と名づけることができるし、選択称名(せんじゃくしょうみょう)の願とも名付けることができる。
◎大行についての根本教典を引く
設我得仏十方世界無量諸仏不悉咨嗟 称我名者不取正覚 (大経 第一七願文)
たとえば、我、仏を得たらむに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、我が名を称ぜずば 正覚を取らじ
(意訳)わたしが仏になったとき、すべての世界の数限りない仏がたが、ことごとくわたしの名号をほめたたえないようなら、わたしは決して悟りをひらくまい。
我至成仏道名声超十方究竟靡所聞誓不成正覚為衆開宝蔵広施功徳宝常於大衆中説法獅子吼 (大経 重誓偈)
我れ仏道を成らんに至りて、名声十方に越えん。究竟(くきょう)して聞こゆるところなくは、誓ふ、正覚を成らじと。衆の為に宝蔵を開きて、広く功徳の宝を施せん。常に大衆の中にして説法獅子吼(せっぽうししく)せん。
(意訳)わたしが仏のさとりを得たとき、わたしの名号を広くすべての世界に響かせよう。もし聞こえないところがあるなら誓って仏にはなるまい。人々のためにすべての教えを説き明かし、広く功徳の宝を与えよう。常に人々の中にあって、獅子が吼えるように教えを説こう。
十方恒砂諸仏如来皆共讃嘆 無量寿仏威神功徳不可思議
(大経下巻 十七願成就文)
十方恒砂の諸仏如来皆共に、無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまふ。
(意訳)すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく無量寿仏のはかり知る事のできないすぐれた功徳をほめたたえておいでになる。
無量寿仏威神無極十方世界無量無辺不可思議諸仏如来莫不称嘆於彼
(大経下巻 十七願成就文)
無量寿仏の威神、極(きわみ)なし。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、彼を称嘆せざるはなし。
(意訳)無量寿仏のおおいなる徳は、この上なくすぐれており、すべての世界の数かぎりない仏がたは、残らずこの仏をほめたたえておいでになる。
其仏本願力聞名欲往生皆悉到彼国自到不退転
(大経下巻 )
その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲えば、皆ことごとく彼の国に到りて おのずから不退転に到る
(意訳)その仏の本願のはたらきにより、名号のいわれを聞いて往生を願うものは、残らずみなその国に往生し、おのずから不退転の位に至る。
(解説)玄通律師が地獄に堕ちて、この経文を称えて地獄を逃れたためという言い伝えから破地獄の文と言われている
◎大行についての結論を下す。
爾(しか)れば、名を称するに能く衆生の一切の無明(むみょう)を破し、能く衆生の一切の志願を満たてたまふ。称名は即ち最勝真妙の正業(しょうぎょう)なり。正業は即ち是れ念仏なり。念仏は即ち是れ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏は即ち是れ正念なりと。知るべし。
(意訳)それだから、ただ名号を称えるところに、衆生のすべての無明を破り、衆生のすべての願いを満たしてくださるのである。称名は最もすぐれた正しい行業である。正しい行業はすなわち念仏である。念仏は南無阿弥陀仏の名号である。南無阿弥陀仏の名号はすなわち信心である。このことをよく知るがいい。
◎七高僧の論・釈を引用、大行について更に述べる。
●竜樹 「十住眦婆沙論」(じゅうじゅうびばしゃろん)
仏法に無量の門あり。世間の道に難有り、易有り。陸道(りくどう)の歩行(ぶぎょう)は則ち苦しく、水道の乗船は則ち楽しきが如し。菩薩の道もまたかくのごとし。或は懃行(おんぎょう)精進のものもあり、或は、信方便の易行をもって疾(と)く阿惟超致地(あゆいおっち)に至るものあり。もし人疾く不退転地に至らんと欲はば、恭敬(くぎょう)の心をもって就持して名号を称すべし。
(意訳)仏法には、はかりしれない多くの教えがある。たとえば、世の中の道には、難しい道と易しい道とがあって、陸路を歩んでいくのは苦しいが、水路を船に乗って渡るのは楽しいようなものである。菩薩の道も同じである。自力の行に励む者もあれば、他力信心の易行で速やかに不退転の位に至ろうと思うなら、あつく敬う心をもって仏の名号を信じ称えるがよい。
●天親 「浄土論」
仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者無し
能く速やかに功徳の大宝海を満足せしむと
(意訳)阿弥陀仏の本願のはたらきに遇って、いたずらに迷いの生死を繰り返すものはなく、速やかに功徳の宝の海を満足させてくださるのである。
●曇鸞 「論註」
●道綽 「安楽集」
●善導 「往生礼讃」
唯、念仏の衆生を観そなわして摂取して捨てざるが故に阿弥陀と名づくと
(解説)観経にかく書いてあるのを受けている
光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨
我成仏十方衆生称我名号下至十声若不生者不取正覚彼仏今現在成仏当知本誓重願不虚衆生称念必得往生
我成仏せむに十方の衆生、我名号を称せむ。下、十声に至るまで若し生まれずば正覚を取らじ。彼の仏、今現に在しまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すれば必ず往生を得と。
(意訳)もし私が仏になった時、すべての世界の衆生が私の名号を称え、それがわずか十声ほどのものであってもみな往生させよう。もし往生しないということがあったら私も仏の悟りをひらくまい(無量寿経)。かく誓われた阿弥陀仏は今現に成仏しておられる。このことからすれば、当然あの仏の誓いの本願が虚しいものでなかったことがわかるであろう。衆生は誰でも名号を称えれば、皆必ずかの浄土に往生することができるのである。
(解説)この文は、法然が自分の真影の銘に書いて親鸞に与えられた句と伝えられる有名な文で、第十八願の意味を要約した文である。
言南無者即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者即是其行以斯義故必得往生
南無と言うは、即ち是れ帰命(きみょう)なり、亦た是れ発願回向(ほつがんえこう)の義なり。阿弥陀仏というは、即ち是れ其の行なり。其の義を以ての故に、必ず往生を得と。
(意訳)南無というのは私が仏の仰せに従うことすなわち帰命であり、この帰命はほかならぬ弥陀の発願回向のはたらきが私にはたらいたものなのである。阿弥陀仏というのは仏のこの摂取のはたらきの行そのものにほかならない。それだからこそ必ず往生することが出来るのである。
◎ここで有名な六字釈を語られる。
爾者之言南無帰命帰言至也又帰説也説字悦音又帰説也説字悦税音悦税二音也述也宣述人意也命言業也招引也使也教也道也信也計也召也是以帰命本願招喚之勅命也
爾(しか)れば、南無の言は帰命(きみょう)なり。帰の言は至るなり。又帰説なり。説の字は悦(えつ)の音也。又帰説也。説の字は税(さい)の音也。悦税二つの音は告ぐる也。述ぶる也、人の意を述ぶる也。命の言は業也。招き引く也。使也。教也。道也。信也。計(はからう)也。召(めす)也。是を以って、帰命は本願招喚の勅命なり。
(意訳)そこで南無ということばは帰命ということである。「帰」の字は至るという意味である。また帰説(きえつ)という熟語の意味で「よりたのむ」ということである。この場合、説の字は悦(えつ)と読むのである。また帰説(きさい)という熟語の意味で、「よりかかる」ということである。この場合、説の字は税(さい)と読む。説の字は悦(えつ)と税(さい)の二つの読み方があるが、説といえば、告げる、述べるという意味であり、阿弥陀仏がその思し召しを述べられるという事である。
「命」の字は、阿弥陀仏のはたらきという意味である。阿弥陀仏がわたしを招き引くという意味であり、阿弥陀仏がわたしを使うという意味であり、阿弥陀仏がわたしに教え知らせるという意味であり、阿弥陀仏の救いのまこと、または阿弥陀仏がわたしに知らせてくださるという信の意味であり、阿弥陀仏のお計らいという意味であり、阿弥陀仏がわたしを召してくださるという意味である。こういうことで、「帰命」というのは、わたしを招き喚び続けておられる如来の本願の仰せである。
言発願回向者如来已発願回施衆生行之心也
発願回向(ほつがんえこう)と言うは、如来すでに発願して衆生の行を回施(えせ)したまふの心なり。
(意訳)「発願回向」とは、阿弥陀仏が因位の時に誓願をおこされて、わたしたちに往生の行を与えてくださる大いなる慈悲の心である。
言即是其行者即選択本願是也
即是其行と言うは、即ち選択本願(せんじゃくほんがん)是なり。
(意訳)「即是其行」とは、衆生を救うために選びとられた本願の行という意味である。
言必得往生者彰獲至不退位也
必得往生とは、不退位に至ることをうることを彰すなり。
(意訳)「必得往生」とは、この世で不退転の位に至ることをあらわしている。
●源信 「往生要集」
●源空 「選択本願念仏集」
それすみやかに生死(しょうじ)を離れんとおもわば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門(しょうどうもん)を閣(さしお)きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんともはば、正・雑二行(しょうぞうにぎょう)のなかに、しばらくもろもろの雑行(ぞうぎょう)をなげうちて、選んで正行(しょうぎょう)に帰すべし。正行を修せんとおもわば、正・助二業のなかに、なお助業を傍らにして、選んで正定(しょうじょう)をもっぱらにすべし。正定の業とはすなわちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるが故に
(意訳)そもそも、速やかに迷いの世界を離れようと思うなら、二種のすぐれた法門のうちで、聖道門をさしおき、浄土門に入れ。浄土門に入ろうと思うなら、正行と雑行の中で、雑行をすてて、正行に帰せ。正行を修めようと思うなら、正定業と助業の中で、助業を傍らにおいておき、もっぱら正定業を修めよ。正定業とはすなわち、仏の名号を称えることである。称名するものは、かならず往生をえる。阿弥陀仏の本願によるからである。
◎七祖の論釈を引いて名号を讃嘆したので、ここで私釈を述べる。
明らかに知んぬ・これ凡聖自力の行に非ず、故に不回向の行と名づくなり。大小聖人、重軽悪人、皆、同じく斉しく選択の大宝海の帰して、念仏成仏すべし
(意訳)明らかに知る事が出来た。本願の念仏は、凡夫や聖者が、自ら励む自力の行ではない。阿弥陀仏のはたらきかけによるものであるから、行者の側からすれば、不回向の行というのである。大乗の聖者も小乗の聖者も、また重い罪の人も軽い罪の人も、みな同じく、この大いなる宝の海と例えられる選択本願に帰し、念仏して成仏すべきである。
(参考)
真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば
不回向となづけてぞ 自力の称念きらわるる
◎感激的な言葉で名号の利益を語られる。
爾者乗大悲願船浮光明広海至徳風静衆禍波転即破無明闇速到無量光明土証大般涅槃遵普賢之徳也可知
爾(しか)れば、大悲の願船に乗じて、光明の広海に浮かびぬれば、至徳の風静かに、衆禍(しゅうか)の波転ず。即ち無明の闇を破し、速やかに無量光明土に到りて、大般涅槃を証す。普賢の徳に遵(したが)うなり。知る可しと。
(意訳)そこで、本願の大いなる慈悲の船に乗り、光明のかがやく大海に浮かびでると、この上ない功徳の風が静かに吹いてきて、あらゆる禍の波は転じて治まる。即ち、迷いの闇を破って、はかりしれない光明の浄土に速やかに至り、仏の悟りを開かせてもらい、さらに衆生を救うはたらきをさせて頂けるのである。よく知るがよい。
普賢の徳・・・菩薩が慈悲をもってあまねく一切の衆生を済度する利他の働きをいう
◎大行の四つの徳をあげ、行巻を結ばれる
誠知選択摂取之本願超世希有之勝行円融真妙之正法至極無碍之大行也 可知
誠に知んぬ、選択(せんじゃく)摂取の本願、超世希有(ちょうせけう)の勝行(しょうぎょう)、円融真妙(えんにゅうしんみょう)の正法(しょうほう)、至極無碍(しごくむげ)の大行なり。知るべしと。
(意訳)誠に知ることができた。この大行の名号は、阿弥陀如来が特に選び取られたところの本願の行であり、世に越えすぐれた希な行であり、一切の功徳がまどかにとけ込んでいる真妙な正法であり、なにものにも碍えられない至極の大行である。よく知るべきである。
◎要義を解釈する
●他力
他力者如来本願力也
(意訳)他力と言うは如来の本願力なり
そもそも、衆生が浄土に生まれることも、浄土に生まれて様々な働きを顕すことも、みな本願のはたらきによるのである。これを示す三つの願は
第十八願(至心信楽の願)(ししんしんぎょう)
第十一願(必至滅度の願)(ひっしめつど)
第二十二願(還相回向の願)(げんそうえこう) である。
これらのことから、他力すなわち、仏のはたらきということを考えると、他力は人々が速やかにさとりを得るためのもっともすぐれた働きなのである。それはもはや否定できないことである。自力にとらわれるのは、何とおろかなことであろう。後の世に道を学ぶ者よ、すべてをまかせることができる他力の法を聞いて、信心をおこすべきである。決して自力にこだわってはいけない。
●元照律師の文
或いは此の方にして、惑(まどい)を破し真を証すれば、則ち自力を運ぶが故に、大小の諸経に談ず。或いは他方に往きて法を聞き道を悟るは、須(すべから)く他力を憑(たの)む故に、往生浄土を説く。彼此異なりと雖(いえど)も、方便にあらざること莫(な)し、自心を悟らしむるなり。
(意訳)この娑婆世界で迷いを断ち切って真理を悟るには、自力が必要であるから、大乗、小乗の教典にはこのことが説かれてある。
また他方の浄土に行って法を聞き、悟りを開くにはどうしても他力が必要であるから、このため往生浄土のことが説かれてある。
この娑婆で悟る教えと、かの浄土で悟る教えとは、それぞれの教えは異なっているけれども、これはひとつとして如来の方便(ひとつの方法)でないものはない。いずれにしても、われわれの仏性を悟らしむ(我々に悟りを開かせる)ためのものにほかならぬ・
●一乗海
一乗海というは、一乗は大乗なり。大乗は仏乗なり
(解説)
「乗」はのりものの事で、運載の意味をあらわし、教えの事を言う。すなわち、一乗とはすべてのものが仏になるという唯一絶対の教えと言うこと。
その教えの深くして広いことを海に例え、一乗海と読んだ。
●正信念仏偈
凡就誓願有真実行信 亦有方便行信 其真実行願者諸仏称名願其真実信願者至心信楽願 斯乃選択本願之行信也其機則一切善悪大小凡愚也 往生者則難思議往生也 仏土者則報仏報土也斯乃誓願不可思議一実真如海大無量寿経之宗致他力真宗之正意也
凡そ誓願に就いて真実の行信有り 亦方便の行信有り 其の真実の行願は、諸仏称名の願なり 其の真実の信願は至心信楽(ししんしんぎょう)の願なり 斯れ乃ち選択本願の行信なり 其の機は一切善悪大小凡愚なり 往生は難思議(なんじぎ)往生なり 仏土は則ち報仏報土なり 斯れ乃ち誓願不可思議一実真如海なり 大無量寿経の宗致 他力真宗の正意なり
(意訳)およそ弥陀の誓願には、真実の行信と方便の行信とがある。その真実の行を誓われたものが第十七の諸仏称名の願である。その真実の信を誓われたものが第十八の至心信楽の願である。これがすなわち選択本願の行信である。その救われる本願の対象は、一切の善悪大小の凡愚である。またその往生は難思議の往生である。また仏土は報仏報土である。これがはかりがたい弥陀の誓願の不思議であり、真如法性にかなった一乗海で、それが大無量寿経に説かれた本旨であり、これこそ他力真宗の正意である。
帰命無量寿如来 南無不可思議光
無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。
(意訳)限りない命の如来に帰命し、思いはかることの出来ない光の如来に帰依したてまつる。
法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪
建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方
法蔵菩薩の因位の時 世自在王仏の所にましまして、諸仏の浄土の因 国土人天の善悪を覩見して、無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓うらくは、名声十方に聞こえんと
(意訳)法蔵菩薩の因位の時に、世自在王仏のみもとで、仏がたの浄土の成り立ちや、その国土や人間の善悪をご覧になって、この上なくすぐれた願をおたてになり、世にもまれな大いなる誓いをおこされた。五劫もの長い間思惟して、この誓願を選び取り、名号をすべての世界に聞こえさせようと重ねて誓われたのである。
普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光
超日月光照塵刹 一切群生蒙光照
普く無量 無辺光 無碍 無対 光炎王 清浄 歓喜 智慧光 不断 難思 無称光超日月光を放って塵刹(じんせつ)を照らす 一切の群生光照を蒙(こうむ)る
(意訳)本願を成就された仏は、無量光、無辺光、無碍光、無対光、光炎王、清浄光、歓喜光、智慧光、不断光、難思光、無称光、超日月光とたたえられる光明を放って、広くすべての国々を照らし、すべての衆生はその光明に照らされる。
本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
本願の名号は正定の業なり 至心信楽の願を因と為す 等覚を成り大涅槃を証することは必至滅度の願成就なり
(意訳)本願の名号は衆生が間違いなく往生するための行であり、至心信楽の願(第十八願)に誓われている信を往生の正因とする。正定聚の位につき、浄土に往生してさとりを開くことが出来るのは、必至滅度の願(第十一願)が成就されたことによる。
如来所以興出世 唯説弥陀本願海
五濁悪時群生海 応信如来如実言
如来、世に興出したまうゆえは 唯、弥陀本願海を説かむとなり 五濁(ごじょく)悪時の群生海(ぐんじょうかい) 如来如実の言を信ずべし
(意訳)如来が世に出られるのは、ただ阿弥陀仏の本願海の教えを説くためである。五濁の世の人々は、釈尊のまことの教えを信ずるがよい。
能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃
凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味
能く一念喜愛の心を発すれば 煩悩を断ぜずして涅槃(ねはん)をうるなり
凡聖逆謗(ぼんじょうぎゃくほう)斉(ひと)しく回入すれば 衆水海に入りて一味なるが如し
(意訳)信をおこして、阿弥陀仏の救いを喜ぶ人は、自ら煩悩を断ちきらないまま、浄土でさとりを得る事が出来る。凡夫も聖者も五逆のものも謗法のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる。
摂取心光常照護 已能雖破無明暗
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
摂取の心光、常に照護したまう すでに能く無明の闇を破すと雖も 貪愛瞋憎(とんないしんぞう)の雲霧、常に真実信心の天に覆(おほ)へり 譬へば日光の雲霧に覆はるれども雲霧の下 明にして闇無きが如し
(意訳)阿弥陀仏の光明はいつも衆生を摂取してお護り下さる。すでに無明の闇ははれても、貪りや怒りの雲や霧は、いつっもまことの信心の空を覆っている。しかし、たとえば日光が雲や霧にさえぎられても、その下は明るくて闇がないのと同じである。
獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
信を獲て見て敬ひ大きに慶喜(きょうき)すれば、即ち横に五悪趣を超截(ちょうぜつ)す。
(意訳)信を獲て見て敬い大いに慶喜(きょうき)すれば、ただちに本願力によって迷いの世界のきずなが断ちきられる。
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願
仏言広大勝解者 是人名分陀利華
一切善悪の凡夫人 如来の弘誓願を聞信すれば、仏、広大勝解(こうだいしょうげ)の者とのたまへり 是の人を分陀利華(ふんだりけ)と名づく
(意訳)善人も悪人も、どのような凡夫であっても、阿弥陀仏の本願を信ずれば、仏は、この人をすぐれた智慧を得たものであるとたたえ、汚れのない白い蓮の華のような人とおほめになる。
弥陀仏本願念仏 邪見驕慢悪衆生
信楽受持甚以難 難中之難無過斯
弥陀仏の本願念仏は邪見・驕慢(きょうまん)の悪衆生 信楽(しんぎょう)受持すること 甚だ以て難し 難の中の難、斯(こ)れに過ぎたるは無し
(意訳)阿弥陀仏の本願念仏の法は、よこしまな考えを持ち、おごり高ぶる自力のものが、信じることは実に難しい。難の中の難であり、これ以上に難しいことはない。
印度西天之論家 中夏日域之高僧
顕大聖興世正意 明如来本誓応機
印度西天の論家 中夏日域の高僧 大聖興世の正意を顕し 如来の本誓 機に応ぜることを明かす
(意訳)印度の菩薩方や中国の高僧方が、釈尊が世に出られた本意をあらわし、阿弥陀仏の本願は私達のためにたてられたことを明らかにされた。
釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺
竜樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽
顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定
唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩
釈迦如来 楞伽山(りょうがせん)にして 衆の為に告命したまわく 南天竺(なんてんじく)に竜樹大士世に出て悉く能く有無の見を摧破(ざいは)せん。大乗無上の法を宣説して 歓喜地(かんぎじ)を証して安楽に生せむと。難行の陸路苦しきことを顕示して 易行の水道楽しきことを信楽せしむ。弥仏の本願を憶念すれば 自然に即の時、必定(ひつじょう)に入る。 唯能く常に如来の号を称して 大悲弘誓の恩を報ずべしといえり
(意訳)釈尊は、楞伽山で大衆に、「南印度に竜樹菩薩が現れて、有無の邪見をすべてうち破り、尊い大乗の法を説き、歓喜地の位に至って、阿弥陀仏の浄土に往生するだろう。」と仰せになった。難行道は苦しい陸路のようであると示し、易行道は楽しい船旅のようであるとおすすめになる。「阿弥陀仏の本願を信ずれば、自ずからただちに正定聚に入る。唯、常に阿弥陀仏の名号を称え、本願の大いなる慈悲の恩に報いるがよい」と述べられた
天親菩薩造論説 帰命無碍光如来
依修多羅顕真実 光闡横超大誓願
広由本願力回向 為度群生彰一心
帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身
遊煩悩林現神通 入生死薗示応化
天親菩薩論を造りて説かく 無碍光如来に帰命したてまつる 修多羅(しゅたら)に依りて真実を顕して横超の大誓願を光闡す
広く本願力の回向に由りて 群生を度せんが為に一心を彰す 功徳大宝海に帰入すれば必ず大会衆の数に入ることを獲。蓮華蔵世界に至ることを得れば 即ち真如法性(ほっしょう)の身を証せしむと。煩悩の林に遊びて神通を現じ 生死の薗に入りて応化を示すといえり 。
(意訳)天親菩薩は「浄土論」を著して、「無碍光如来に帰依したてまつる」と述べられた。浄土の教典に基づいて、阿弥陀仏の真実をあらわされ、横超のすぐれた誓願をひろくお示しになり、本願力の回向によってすべてのものを救うために、一心すなわち、他力の信心を明らかにされた。「大いなる功徳の海に入れば、浄土に往生する身と定まる。阿弥陀仏の浄土に往生すれば、直ちに真如を悟った身となり、さらに迷いの世界に還えり、神通力をあらわして、自在に衆生を救う事が出来る」と述べられた。
本師曇鸞梁天子 常向鸞処菩薩礼
三蔵流支授浄経 梵焼仙経帰楽邦
天親菩薩論註解 報土因果顕誓願
往還回向由他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃
必至無量光明土 諸有衆生皆普化
本師曇鸞(どんらん)は、梁(りょう)の天子、常に鸞の処に向かうて菩薩と礼したてまつる。三蔵流支(さんぞうるし)、浄経を授けしかば 仙経を梵焼して楽邦に帰したまひき
天親(てんじん)菩薩の論、註解して 報土の因果誓願を顕す。往還(おうげん)の回向(えこう)は他力に由(よ)る。正定(しょうじょう)の因は唯信心なり。惑染(わくぜん)の凡夫、信心発すれば、生死即涅槃なりと証知せしむ。必ず無量光明土に至れば、諸有の衆生皆普(あまね)く化すといえり
(意訳)曇鸞大師は、南朝の梁の皇帝が、常に菩薩と仰がれた人である菩提流支三蔵から浄土の教典を授けられたので、仙経(不老不死を説いた道教の書)を焼き捨てて浄土の教えに帰依された。
天親菩薩の浄土論を註釈して、浄土に往生する因も果も阿弥陀仏の誓願によることを明らかにし、往相も還相も他力の回向であると示された。「浄土へ往生するための因はただ信心一つである。煩悩具足の凡夫でもこの信心を得たなら、仏のさとりを開くことが出来る。はかりしれない光明の浄土に至ると、あらゆる迷いの衆生を導くことができる。」と述べられた。
道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号歓專称
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
道綽(どうしゃく)、聖道(しょうどう)の証し難きことを決して、唯、浄土の通入すべきことを明かす。万善の自力勤修(ごんしゅう)を貶(へん)す。円満の徳号專称を勧む。三不三信の誨(おしえ)、慇懃(おんごん)にして像末法滅同じく悲引す。一生悪を造れども、弘誓に値いぬれば、安養界(あんにょうかい)に至りて妙果を証せしむといえり
(意訳)道綽禅師は、聖道門の教えによってさとるのは難しく。浄土門の教えによってのみさとりに至ることができることを明らかにされた。自力の行はいくら修めても劣っているとして、ひとすじにあらゆる功徳をそなえた名号を称えることをおすすめになる。三不と三不信の教えを懇切に示し、正法、像法、末法、法滅、いつの時代においても、本願念仏の法は変わらず人々を救い続ける事を明かされる。「たとえ生涯悪を作り続けても、阿弥陀仏の本願を信じれば、浄土に往生しこの上ないさとりをは開く」と述べられた。
善導独明仏正意 矜哀定散与逆悪
光明名号顕因縁 開入本願大智海
行者正受金剛心 慶喜一念相応後
与韋提等獲三忍 即証法性之常楽
善導独り仏の正意を明かせり。定散(じょうさん)と逆悪とを矜哀(こうあい)して、光明・名号因縁を顕す。本願の大智海に開入すれば、行者正しく金剛心を受けしめ、慶喜の一念相応して後、韋提(いだい)と等しく三忍を獲、即、法性の常楽を証せしむといえり。
(意訳)善導大師はただ独り、これまでの誤った説を正して仏の教えの真意を明らかにされた。善悪のすべての人を哀れんで、光明と名号が縁となり因となってお救い下さると示された。「本願の大いなる智慧の海に入れば、行者は他力の信を回向され、如来の本願にかなうことが出来たその時に、韋提希(いだいけ)と同じく三忍を得て、浄土に往生してただちに悟りを開く。」と述べられた。
○三忍・・無生法忍の持つ三つの徳義・・喜忍(歓喜の思い) 悟忍(仏智を了解する事) 信忍(仏力を信じること)
○無生法忍
真如は本来、無生無滅であるからこれを無生法という。忍はさとる事。そこでこの無生法を悟る事を無生法忍という
源信広開一代教 偏帰安養勧一切
專雑就心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我
源信広く一代の教を開きて、偏えに安養に帰して一切を勧む。專雑(せんぞう)の就心浅深を判して、報化(ほうけ)二土正しく弁立せり。極重の悪人は唯仏を称すべし。我亦 彼の摂取の中に在れども煩悩眼(まなこ)を障へて見たてまつらずと雖も 大悲倦(ものう)きこと無く、常に我を照したまふといえり。
(意訳)源信和尚は、釈尊の説かれた教えを広く学ばれて、ひとえに浄土を願い、また世のすべての人々にもお勧めになった。さまざまな行をまじえて修める自力の信心は浅く、化土にしか往生できないが、念仏一つを専ら修める他力の信心は深く、報土に往生できると明らかにされた。
「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩が私の眼をさえぎって見立てまつる事ができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのような私を見捨てる事無く常に照らしていてくださる。」と述べられた。
本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人
真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止
速入寂静無為楽 必以信心為能入
本師源空は仏教に明かにして、善悪の凡夫人を憐愍(れんみん)せしむ。真宗の教証、片州に興す。選択本願、悪世に弘む。
生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情を以って所止とす。速やかに寂静無為(じゃくじょうむい)の楽に入ることは、必ず信心を以って能入と為すといえり。
(意訳)源空上人は、深く仏の教えをきわめられ、善人も悪人もすべての凡夫を哀れんで、この国の往生浄土の真実の教えを開いて明らかにされ、選択本願の法を五濁の世におひろめになった。
「迷いの世界に輪廻し続けるのは、本願を疑いはからうからである。速やかに悟りの世界にいるには、ただ本願を信じるより他はない。」と述べられた。
弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪
道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説
弘経の大士宗師等 無辺の極濁悪(ごくじょくあく)を拯済(じょうさい)したまう。道俗時衆共に同心に唯、斯の高僧の説を信ずべしと。
(意訳)浄土の教えをひろめて下さった祖師方は、数限りない五濁の世の衆生をみなお導きになる。出家のものも在家のものも今の世の人々はみなともに、ただこの高僧方の教えを仰いで信じるがよい
●行巻で印象に残った文章
人の命まれに得べし 仏世に在せども、甚だ値い難し 信慧ありて到るべからず もし聞見せば精進して求めよ
人間に生まれることは希な事で、仏が世に出られてもあうことは難しい。信心の智慧を得ることは更に難しい。もし仏法に会えたら精進して求めるがいい( 平等覚経 )
念仏成仏是真宗 (仏本行経)
了義中了義 (元照の文)
浄土の念仏の法門は了義(真実の義理を明了に説くお経)の中の了義である。(私の次男はこの「了」という字を頂いている)
第四編 顕浄土真実信文類序
それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡(かいせん)することは、大聖(釈尊)矜哀(こうあい)の善巧(ぜんぎょう)より顕彰せり。
しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心(じしょうゆいしん)に沈みて浄土の真証を貶(へん)す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏(くら)し。
ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲(ひえつ)す。広く三経の光沢を蒙(かぶ)りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出(いだ)す。まことに仏恩(ぶっとん)の深重(じんじゅう)なるを念じて、人倫の哢言(ろうげん)を恥じず。浄邦を欣(ねが)ふ徒衆、穢域(えいき)を厭(いと)う庶類(しょるい)、取捨を加ふといへども毀謗(きぼう)を生ずることなかれとなり。
(意訳)
さて、考えてみると、他力の信心を得ることは、阿弥陀仏が本願を選び取られた慈悲の心からおこるのである。その真実の信心を広く明らかにすることは、釈尊が衆生を哀れむ心からおこされたすぐれたお導きによって解き明かされたのである。 ところが、末法の世の出家のものや在家のも
の、また近頃の各宗の人々の中には、自らの心をみがいてさとりを開くという聖道門の教えにとらわれて、西方浄土の往生を願うことをけなし、また定善・散善を修める自力の心にとらわれて、他力の信を誤るものがある。
ここに愚禿釈の親鸞は、仏方や釈尊の真実の教えにしたがい、祖師方の示された宗義をひらきみる。広く三経の輝かしい恩恵を受けて、とくに一心をあらわされた「浄土論」のご文をひらく。ひとまず疑問を設け、最後にそれを証された文を示そう。心から仏の恩の深い事を思い、人々のあざけりを恥じようとは思わない。浄土を願うともがらよ、娑婆世界を厭う人々よ、たとえこれに取捨を加えることがあっても、真実の法を示されたこれらの文をそしることがあってはならない。
定善 雑念をはらい心を凝らして如来、浄土を観察する行のこと
散善 散乱した心のままで悪を止め善を修める行のこと
第五編 顕浄土真実信文類
謹按往相回向有大信
謹んで往相回向を按ずるに大信有り
(解説)行巻で「往相の回向を按ずるに大行あり大信あり」として、その大行についてのべたので、この巻では大信について述べようというのである。
◎大信とは、何かを述べられる。
大信心とは則ち是れ、長生不死(ちょうせいふし)の神方(しんぽう)、欣浄厭穢(ごんじょうえんね)の妙術、選択回向(せんじゃくえこう)の直心(じきしん)、利他深広(じんこう)の信楽(しんぎょう)、金剛不壊(ふえ)の真心、易往無人(いおうむにん)の浄信、心光摂護(しんこうしょうご)の一心、希有最勝(けうさいしょう)の大信、世間難信の捷径(せっけい)、証大涅槃の真因、極速円融(ごくそくえんにゅう)の白道(びゃくどう)、真如一実の信海なり。
(意訳)大信心は、生死越えた命を得る不思議な法であり、浄土を願い娑婆世界を厭うすぐれた道であり、阿弥陀仏が選び取り回向してくださった疑いのない心であり、他力より与えられる深く広い信心であり、金剛のように堅固で破壊されることのない真実の心であり、それを得れば浄土へは行きやすいが自力では得られない清らかな信であり、如来の光明におさめられて護られる一心であり、たぐい希なすぐれた大信であり、世間一般の考えでは信じがたい近道であり、この上ないさとりを開く真実の因であり、たちどころにあらゆる功徳が満たされる清らかな道であり、この上ないさとりの徳をおさめた信心の海である。
◎大信心がどこから生じたのか示される。
この信心は念仏往生の願(第十八願)に誓われている。この大いなる願を選択本願と名付け、また本願三心の願と名付け、また至心信楽の願と名づく。また往相信心の願とも名付ける事ができる。
◎根本教典を示される。
設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法
(無量寿経 十八願)
設へ我、仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して我が国にうまれんと欲ひて、乃至十念せん。若し生まれざれば正覚を取らじと。唯、五逆と誹謗正法を除く
(意訳)わたしが仏になったとき、あらゆる人々が、まことの心で(至心)信じ喜び(信楽)、わたしの国に生まれると思って(欲生)、たとえ十声念仏して(乃至十念)、もし生まれることができないようなら、わたしは悟りを開くまい。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる。
諸有衆生聞其名号信心歓喜乃至一念至心回向願生彼国即得往生住不退転唯除五逆誹謗正法
(無量寿経 成就文)
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至(ないし)一念せん。至心に回向(えこう)せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなわち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法(ひぼうしょうほう)とをば除くと。
(意訳)すべての人々は、その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき、その信は阿弥陀仏がまことの心(至心)をもってお与えになったものであるから、浄土へ生まれようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる。
◎七高僧の論・釈を引用して、信について更に述べられる。
●曇鸞 「論註」
名号には
仏智の不思議を疑う無明の闇を破る働き
衆生の、往生する願いを満足させる働き
の二つの徳がある(破闇満願)。それなのにいくら称名憶念してもそれが満足されないのは何故か、それには二つの理由がある。
@三不信があるから
(イ)信心不淳 心の中に疑いが混じっている
(ロ)信心不一 心が専一でなく疑心のあること
(ハ)信心不相続 思いが続かない
三信・・淳心 一心 相続心
A二不知があるから
(イ) 阿弥陀仏は真如法性を証得された自利円満の実相身(じっそうしん)(自利)の仏であることを知らない
(ロ)阿弥陀仏はひとえに一切の衆生を救済しようとする為物身(いもつしん(利他)の仏でありことを知らない
●善導大師 「観経疏(散善義)」(かんぎょうしょ・さんぜんぎ)
大信心を明かすにあたって、その本願の三心を「観経」の三心で解説しようとしてここに引かれる
◎至誠心(しじょうしん)
(意訳)
至とは真であり、誠とは実である。凡夫は至誠心をもとうと思っても到底できないことだから、如来の真実の中でなされたものをそのままいただくのがよい。それだから、いたずらに外面を賢こばったり、善人ぶったりして、精進努力することはやめてしまいなさい。だいたい内面は虚仮いつわりであって、その心は貪り、怒り、邪悪で、偽りの煩悩にみちみち、欺きの心が群がりおこって、その本性の悪性はとうていやめがたいものである。それはあの気味悪い蛇や毒のあるさそりに等しい。
聖者も凡夫も、智慧ある人も愚かな人も、みな如来の真実をいただくのであるから、至誠心というのである。
(解説)ここの部分の善導大師の文は素直に読むと「外面には賢く善人に精進努力して、内面には虚仮いつわりを懐いてはいけない」と読める。しかし、親鸞聖人はこれを返り点を付け替えて全く反対の意味に読んだ。これは聖人が、善導の心の底に立ち入ってその真実を探った結果、こう読んだ方が、善導の真意に忠実と考えたからである。このように教行信証では、親鸞聖人は色々な論釈を引用しながらも、真実に照らして(決して自己流に読みかえたという事ではなく)、自由に読みかえを行っている。
◎深心(じんしん)
二者深心。深心といふは、すなわちこれ深信の心なり。また二種あり。一つには決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかた、つねに没し、つねに流転(るてん)して出離(しゅつり)の縁あることなしと信ず。二つには決定(けつじょう)して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受(しょうじゅ)して疑いなく慮(おもんばかり)りなくかの願力(がんりき)に乗じて、さだめて往生を得と信ず。
(意訳)二つには深心。深心というのは、すなわち深く信じる心である。これにまた二種ある。一つには、我が身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、はかりしれない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく信じる。二つには、阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂め取ってお救い下さると、疑いなくためらうことなく、阿弥陀仏の願力におまかせして、間違いなく往生すると、ゆるぎなく深く信じる。
二種深心(にしゅじんしん)
古来、この文は二種深心と言われて、浄土真宗の信心の内容を極めて適切にあらわしたものとして重要視されているものである。一つは、自分が罪悪生死の凡夫、出離の縁なきものであることを信ずる心であるから「機の深信」といわれ、二つには、阿弥陀仏の本願が衆生を摂受したもうことを信ずるのであるから「法の深信」と言われる。仏力によってこの二種の深信は同時に与えられるのである。仏の光明に照らされるとき、そこには私は罪悪深重、絶対に出離不可能な自己であることを知ると同時に、この地獄へ堕ちるよりほかに仕方のない自己が仏の摂取の光明にいだかれている事を知るのである。それは、単なる自己反省による罪の自覚とは全く質的に異なるものであり、機の深信を自力的良心的な人間性の自覚の底にでたものとみる人は、この深信が如来回向のものであることを知らないからである。
◎順彼仏願故
一心に弥陀の名号を專念して、行住座臥に時節の久近を問わず、念念に捨てざるをば、是を正定の業と名ずく、かの仏願に順ずるが故に
(善導 散善義)
(意訳)ただひとすじに、弥陀の名号を称えて、歩くも立つも座るも臥すも、また時間の長短を問わず、憶念して相続する称名を正定業(正しく衆生の往生が決定する業因)という。これは、かの阿弥陀仏の願いにしたがうからである。
(解説)
この文は極めて重要である。法然上人は、この文に目覚めて浄土宗を興されたといわれる。
念仏によって往生するのであるから、この念仏を正定の業と名付けられるのであるが、どうして念仏すれば往生できるのであろうか?その答えが、「順彼仏願故」(それが仏様の願いに順じているからである)ということである。
◎回向発願心(えこうほつがんしん)
阿弥陀仏は、真実心をもって衆生の為に名号の功徳を成就して、それを衆生に回向してくださるのであるが、いま発願して浄土へ往生したいと願うものは、この弥陀の大悲回向の願心をそのまま頂いてわがものとして、浄土へ往生すること間違いなしという決定の心をおこしなさい。この決定の心も弥陀の大悲回向のはたらきが私の上にはたらいたからおこったものである。
◎ここで有名な二河白道(にがびゃくどう)の例えを引用
ある旅人が荒野を一人で旅をしていました。すると、盗賊や獣、毒蛇等が旅人を襲ってきます。旅人は意を決して必死に西へと進みます。すると二つの河が行く手をさえぎります。一つは、激しく荒れ狂う水の河、一つは燃え盛る火の河です。二つの河の間には白い道が向こう岸に向かって続いていますが、わずか十五センチ程しかないうえ、激しい波と猛炎につつまれてとても渡れそうにありません。
退くも死、進むも死、とどまるも死という極限におかれた旅人は、それならば前に進もうと白い道を歩き始めます。すると東の岸から「この道を行け」という声が聞こえ、同時に西の岸から「この道を来い」という喚び声が聞こえてきます。
汝(なんじ)、一心に正念(しょうねん)して直ちに来たれ、我、能く汝を護らむ、すべて水火の難におちんことをおそれざれと。
(阿弥陀仏の言葉)
その二つの声に導かれて歩いてみると、その細い道は、実は激しい波にも猛炎にも脅かされない大道でありました。そして旅人はその白い道を無事に渡りきり、限りない安らぎを得たのです。
この譬えは、私たちが、念仏者として進むべき道についてお示し下さっています。
旅人はこの私で、盗賊や獣達は肉体の苦痛。水の河は「まだやり残したことがたくさんあるのに」「愛する子どもたちと別れたくないのに」といった欲望と愛着の心(貪愛)(とんない)。火の河は「どうして私だけがこんな病気をしなければならないのだ」といった怒りの心(瞋憎)(しんぞう)をあらわしています。東岸の声は、お釈迦さまの教え、西岸の声は阿弥陀さまの喚び声、白い道は南無阿弥陀仏、つまりお念仏の道をあらわしています。
私たちは、死に直面した時、この旅人のごとく、肉体の苦痛だけでなく、貪愛、瞋憎、そして、この私はどこへ進んでいけばいいのかという心の叫びにさいなまれます。善導大師は、そういう私たちに、「お念仏の道を聞いてゆけ」とお示し下さっているのです。
●源信和尚 「往生要集」
われまたかの摂取の中に在れども、煩悩、眼(まなこ)を障(さ)えて見たてまつるにあたわずといえども、大悲、惓(ものう)きことなくして、我が身を照らしたもう
◎大信を結ぶ
しかれば、もしは行もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。
(意訳)
このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀如来の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい。
◎三心一心の問答
ここからは問いをあげてこれに答えながら信についての補足的な説明をしていく
◎(第一問)
阿弥陀仏の本願には、すでに「至心・信楽・欲生」の三心が誓われている。それなのに、なぜ天親菩薩は「一心」といわれたのであろうか?
(答え)
それは愚かな衆生に容易にわからせるためである。阿弥陀仏は三心を誓われているけれども、さとりに至る真実の因はただ信心一つである。だから天親菩薩は本願の三心をあわせて一心と言われたのである。
◎(第二問)
愚かな衆生に容易にわからせるために一心と言われた天親菩薩のおこころは、道理にかなっている。しかしもとより阿弥陀仏は愚かな衆生のために三心の願をおこされたのである。これはどう考えたらいいのであろうか?
(答え)
至心とは・・阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、清らかなまことの心をもって、この上ない智慧の徳を成就された。そしてこの成就されたこの至心(まことのこころ)をすべての衆生に与えられたのである。この至心は、如来より与えられた真実心をあらわす。だからそこに疑いのまじることはない。この至心は、この上ない功徳をおさめた如来の名号を体(本質)とする。
信楽(しんぎょう)とは・・阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つにとけあっている信心である。だから疑いは少しもまじることはない。この信楽は、他力回向の至心を体(本質)とする。
欲生(よくしょう)とは・・如来が迷いの衆生を招き喚びかけられる仰せである。この仰せに疑いが晴れた信楽を欲生の体(本質)とする。
阿弥陀陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、衆生に功徳を施し与える心をもとに大いなる慈悲の心を成就された。そしてこの成就された他力信心の欲生心をすべての衆生に与えられたのである。すなわち、衆生の欲生心は、そのまま如来が回向された心で、大いなる慈悲の心であるから疑いがまじることがない。
三心即一心
このように、至心と信楽と欲生とは、その言葉は異なっているけれども、その意味はひとつである。なぜかというと、これらの三心は、すでに述べたように、疑いがまじってないから真実の一心なのである。これを金剛の真心という。この金剛の真心を真実の信心というのである。
(解説)三心とは一心の本質的な三つの面をそれぞれとりだしたものであって、至心といい、信楽といい、欲生というも一心のそれぞれの一面をいったものに他ならない。したがってこの三心が統一凝縮した極点が一心である。
◎ここで信の本質を総括して述べられる
おほよそ大信海を按ずれば、貴賤(きせん)、緇素(しそ)を簡(えら)ばず、男女老少を謂(い)わず、造罪の多少を問わず、修行の久近(くごん)を論ぜず。
(意訳)総じて、この他力の信心についてうかがうと、身分の違いや出家・在家の違い、また、老若男女の別によってわけへだてがあるのでもなく、犯した罪の多い少ないや修行期間の長い短いなどが問われるのでもない。
◎信一念
(信三心を総括した信楽、すなわち信の一念がどういうものであるかを総括して述べる)
それ真実信楽を按ずるに、信楽に一念有り。
一念はそれ信楽開発(しんぎょうかいほつ)の時剋(じこく)の極促(ごくそく)を顕わし、広大難思の慶心(きょうしん)を彰わすなり。
(意訳)さて、まことの信楽について考えてみると、この信楽には一念がある。一念というのは、信心が開きおこる時のきわまり、すなわち最初の時をあらわし、また広大で思いはかることのできない徳を頂いた喜びの心をあらわしている。
◎聞(もん)
聞と言うは、衆生 仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心あることなし。これを聞とうなり
生起本末・・仏が衆生救済の願をおこされた由来と、その願を成就して現に我々を救済しつつあること
◎現生十益(げんしょうじゅうえき)
(念仏を喜ぶ人が頂ける十種の現世での利益を述べる)
一、眼に見えない方々にいつも護られるという利益
二、名号にこめられたこの上ない尊い徳が身に備わるという利益
三、罪悪が転じて善となる利益
四、仏がたに護られるという利益
五、仏がたにほめたたえられるという利益
六、阿弥陀仏の光明におさめとられて常に護られるという利益
七、心に喜びが多いという利益
八、如来の恩を知りその徳に報謝するという利益
九、常に如来の大いなる慈悲を広めるという利益
十、正定聚に入るという利益
◎横超断四流(おうちょうだんしる)
横は「よこさま」、如来の願力、他力の事。超は「こえて」という事。 四流とは、四暴流(しぼる)で煩悩の異名で欲暴流 有暴流 見暴流 無明暴流の事。また人生に逃れ難き「生老病死」の流れに例えたものである。
(解説)
「横超断四流」という善導大師のことばを親鸞聖人は大切に取り上げられた。四流というのは生老病死の四つ、あるいはこの人生の中で暴れ馬のごとき欲というのが四つ数えられていて、それを四流という。それを断つ、横ざまに切ると。われらは愚かな凡夫であり、煩悩のままに生きるしかない存在だけれども、十方衆生を救わんとする如来の呼びかけに信頼するという信念、本願の信念をいただくならば、その時に、即時に横超断四流であると、こういう随分思い切った宣言を親鸞聖人はしておられる
◎真の仏弟子
真という言葉は偽に対し、仮に対するのである。弟子というのは釈尊や仏がたの弟子であり、他力金剛の信心を得た念仏の行者の事である。この他力回向の信と行によって、必ずこの上ない悟りを開く事が出来るから、真の仏弟子という。
(解説)
愚かな凡人は、この世に生きている限り、愛憎の煩悩を断ち切ることもできず、さまざまな罪障を作り続けるしかない存在です。このような愚かなものを救おうと願い立たれたのが阿弥陀如来の大悲の本願でした。阿弥陀如来の本願は、出家の行者であれ、在家のものであれ、等しく本願を信じ念仏する者に育てあげて、わけへだてなく浄土へ迎え取り、さとりを完成させようと願われています。だから出家は出家のまま、在家のものは在家のままで、本願をまことと疑いなく受け容れて念仏するならば、本願にかなった真の仏弟子とほめ讃え、浄土へ往生させてくださるのです。(梯先生の御法話引用しました。引用場所不詳)
◎弥勒(みろく)と等し
弥勒菩薩は、等覚(仏因円満した正覚に等しい位で仏陀の一歩手前にあるもの)の金剛心を得ているから、釈迦没後五十六億七千万年の後に悟りを開く。念仏の衆生は他力の金剛心を得ているから、この世の命を終えて浄土に生まれ、たちまち完全な悟りを開く。だから、すなわち弥勒菩薩と同じ位であるというのである。
◎懺悔(ざんげ)と悲嘆述懐(ひたんじゅっかい)
それまで真の仏弟子とは何かを述べて、ひるがえって自己を省みた時の述懐を赤裸々に述べて全体を結んでいる。
誠に知んぬ。悲しきかな愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の大山(たいせん)に迷惑して、定聚(じょうじゅ)の数に入ることを喜ばず、真証の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを、恥づべし傷むべしと
(意訳)いま、誠に知ることができた。悲しいことに、愚禿親鸞は、愛欲の煩悩の広海にどっぷりつかりきって、これを恥ずかしいとも思わず、日々愛欲のの生活にあけくれている。また世間の名声や利益の山につい目を向け心を奪われて名誉心や利欲にうつつをぬかし、惑いに迷っている。このような親鸞を弥陀大悲の光明はしっかり抱き包みはぐくんでくだされている。ただそれを素直に受け入れるだけで、必ず成仏するという正定聚の位に入ることができるのに、それを有り難いとも思わず、浄土の真の証に一日一日近づいているのにこのことを快いとも思わず、これをきらってさえいるということは何としたことであろうか。まことに考えてみれば恥じ入るべきことではないか。まことにあさましく、いたましいといってもこれほどいたましいことはないではないか。
◎アジャセ王の救い
涅槃経(ねはんぎょう)の阿闍世(あじゃせ)王の「王舎城(おうしゃじょう)の悲劇」を引用して、救いがたい者が、他力の信によってのみ救われて行く様を述べている
ある時、インドのマガタ国の王舎城に阿闍世という王子がいた。その王子が、提婆達多(だいばだった)にそそのかされ、父の頻婆沙羅王(びんばしゃらおう)を殺害してしまった。しかしそれを後に悔やんで全身に心因性の皮膚病が出来てしまうのだ。
そこで様々な医者を呼んで治そうとするのだが、誰もそれを治す事ができなかった。それをお釈迦様が「月愛三昧」(がつあいざんまい)という方法で癒していったそうだ。これは、月の光が、何も言わずに私たちを静かに優しく照らしてくれるのと同じ様に、あれこれいわないで、相手のありのままの苦しみを黙ってそばで受け止め寄り添っていく方法、慈愛である。
Not doing but being 「何かすることではなくて、そばにいること」
これが月愛三昧の真意であると。そして阿闍世は、これを縁として他力の信によって救われていく。(龍谷大学 鍋島先生の著書「アジャセ王の救い」を参考にしました。)
◎唯除五逆誹謗正法(ゆいじょごぎゃくひぼうしょうほう)
悪人・阿闍世が、他力の信に救われていく物語を受けて、第十八願に書かれている「唯除五逆誹謗正法」について述べられる。
●無量寿経 十八願文
「設へ我、仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して我が国にうまれんと欲ひて、乃至十念せん。若し生まれざれば正覚を取らじと。唯、五逆と誹謗正法を除く」
唯除五逆誹謗正法というのは、因果の道理によって、地獄に堕ちるしかないものを、仏が特に悲しまれて、「唯除」と示して、この悪人に抑止し、深悔を生ぜしめて救いとらんとするのが仏意と考えられる。
そこで宗祖は「五逆のつみびとをきらい、謗法のおもきとがをしらせむとなり。このふたつのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらしめるなり」と述べられている。だから「唯除」とは「特哀」という事である。
だから善導は、「法事讃」の文で、
「謗法(ぼうほう)・闡提(せんだい)、回心すれば皆往く」(謗法のものや一闡提であっても、心をひるがえして如来の本願を信じれば、みな往生する事ができる)と述べている。この句あるが故に「唯除五逆誹謗正法」は、抑止の句たりうるのである。
第六編 顕浄土真実証文類
謹んで真実の証を顕さば、則ちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなわちこれ必至滅度の願より出でたり、また証大涅槃の願と名ずくるなり。
(意訳)つつしんで、真実の証を顕せば、それは他力によって与えられる功徳の満ちた仏の位であり、この上ないさとりという果である。この証は必至滅度の願(第十一願)より出てきたものである。またこの願を証大涅槃の願とも名づけることができる。
◎根本教典を示される。
設我得仏国中人天不住定聚必至滅度者不取正覚
(大経 第十一願)
たとい我仏を得たらんに、国の中の人天、定聚に住し、必ず滅度に至らずば、正覚を取らじと。
(意訳)わたしが仏になったとき、私の国の人々が正定聚の位にあり、必ずさとりに至る事ができないようなら、私は決してさとりを開くまい。
設其有衆生生彼国者皆悉住於我正定聚所以者何彼仏国中无諸邪聚不定聚
(大経 第十一願成就文)
それ衆生ありて、かの国に生まるれば、皆ことごとく正定の聚に住す。所以はいかん、かの仏国の中には。もろもろの邪聚(じゃじゅ)および不定聚(ふじょうじゅ)なければなりと
(意訳)浄土に生まれる人々はすべて正定聚の位にある。なぜなら、阿弥陀仏の浄土に 邪定聚や不定聚のものはいないからである。
◎往相回向の教行信証を結ぶ
それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向の利益なり。かるが故に、もしは因もしは果、一事として阿弥陀仏の清浄願心の回向成就したまえるところにあらざることなし。
(意訳)さて真宗の教・行・信・証を考えてみると、すべてみな阿弥陀仏のおおいなる慈悲の心から回向された利益である。だから、往生成仏の因も果も、すべてみな阿弥陀仏の清らかな願心の回向が成就したものにほかならない。因がきよらかであるから果もまた清らかである。よく知るがよい。
◎還相(げんそう)回向について述べる
いままで往相回向について述べて来たので、ここで還相回向について述べられる。
二つに還相の回向というは、則ちこれ利他教地の益なり。則ち是れ必至補処の願より出でたり。また一生補処の願と名づく、また還相回向の願と名づくべきなり。
(意訳)二つに、還相の回向というのは、思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、他力によって恵まれる事である。これは必至補処の願(第二十二願)より出できたものである。この願をまた一生補処の願と名づける。また還相回向の願とも名づけることができる。
(このあと、還相回向について各師の文を列挙されているが省略)
◎証巻の結び
しかれば大聖の真言、まことに知んぬ、大涅槃を証することは願力の回向によりてなり。還相の利益は利他の正意を顕すなり。ここをもって論主は広大無碍(むげ)の一心を宣布して、あまねく雑染堪忍(ぞうぜんかんにん)の群萌(ぐんもう)を開化す。宗師は大悲往還(おうげん)の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣(ぐせん)したまへり。仰いで奉持(ぶじ)すべし、ことに頂戴すべしと。
(意訳)以上の事から大聖(釈尊)の真実の仰せにより知る事が出来た。この上ないさとりを得る事は、阿弥陀仏の本願力の回向によるのであり、還相のはたらきを恵まれる事は、阿弥陀仏が衆生を救おうとされる本意を顕しているのである。こういうわけであるから、論主(天親菩薩)は、何ものにもさまたげられない広大な功徳をそなえた一心をあらわして
娑婆世界にあって煩悩に汚されている衆生を教え導いてくださり、宗師(曇鸞大師)は、往相も還相もみな阿弥陀仏の大いなる慈悲による回向であることをあらわして、他利と利他の違いを通して他力の深い教えを詳しく説き広めてくださった。仰いでうけたまわるべきであり、つつしんでいただくべきである。
第七編 顕浄土真仏土文類
つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなわち不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなわち大悲の誓願に酬報(しゅうほう)するがゆえに、真の報仏土といふなり。すでにして願います、すなわち光明・寿命の願(第十二、十三願)これなり。
(意訳)つつしんで真実の仏と浄土をうかがうと、仏は思いはかることのできない光明の如来であり、浄土はまた限りない光明の世界である。すなわち、それは法蔵菩薩のおこされた大いなる慈悲の誓願の果報として成就されたものであるから、真実の報仏・報土というのである。その誓願とは、すなわち光明無量の願(第十二願)と寿命無量の願(第十三願)とである。
◎第十二願(光明無量の願)
設我得仏光明有能限量下至不照百千億那由他諸仏国者不取正覚
たとい我仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下、百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚をとらじと
(意訳)
私が仏になったとき、光明に限りがあって、数限りない仏がたの国々をてらさないようなら、わたしは決して悟りを開くまい。
◎第十三願(寿命無量の願)
設我得仏寿命有能限量下至百千億那由他劫不取正覚
たとい我仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下、百千億那由他の劫に至らば、正覚をとらじと
(意訳)私が仏になったとき、寿命に限りがあって、はかりしれない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、わたしは決して悟りを開くまい。
◎第十二、十三願成就文
仏阿難に告げたまわく、無量寿仏の威神光明、最尊第一にして、諸仏の光明の及ぶことあたわざるところなり。この故に無量寿仏をば無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。それ衆生ありて、この光に遇う者は、三垢(さんく)消滅し、身意柔軟なり、歓喜踊躍(かんぎゆやく)し善心生ず。もし三塗勤苦(さんずごんく)の処にありて、この光明を見ば、みな休息(くそく)を得てまた苦悩なけん。寿(いのち)終えての後、みな解脱を蒙(こうむ)る。無量寿仏の光明顕赫(けんかく)にして、十方諸仏の国土を照耀(しょうよう)して聞こえざることなし。
(意訳)釈尊は阿難に仰せになる。無量寿仏の神々しい光明は最も尊いものであって、仏がたの光明のとうてい及ぶところではない。このため無量寿仏を無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と申し上げるのである。この光明に照らされるものは、三毒の煩悩が消え去って、身も心も和らぎ、よろこびに満ちあふれて善い心が生まれる。もし地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界にあってこの光明に出会うなら、みな安らぎを得て、再び苦しみ悩む事なく、命を終えて後にすべて迷いを離れる事が出来る。無量寿仏の光明は明るく輝いて・すべての仏がたの国々を照らし尽くし、その名号の聞こえないところはない。
十二光(無量寿仏の光明を十二の光であらわす。)
無量光 無辺光 無碍光 無対光
炎王光 清浄光 歓喜光 智慧光
不断光 難思光 無称光 超日月光
この後、この光明について各祖の文を引用して解説される(省略)
第八編 顕浄土方便化身土文類
「観無量寿経」の意(こころ)
至心発願の願(第十九願)
「阿弥陀経」の意(こころ)
至心回向の願(第二十願)
しかるに濁世(じょくせ)の群萌(ぐんもう)、穢悪(えあく)の含識(がんしき)、いまし九十五種の邪道を出でて半満権実(はんまんごんじつ)の法門に入るといえども、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり。偽なる者は、甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋(しげ)し。ここを以て、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、福徳蔵(ふくとくぞう)を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来もと誓願を発して普く諸有海を化したもう。
(意訳)さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教の様々な法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはな少なく、虚偽のものははなはだ多い。このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教え(定善と散善の教え)を説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。
(解説)仏教の聖道門にいりながらその修行に耐えられない人々、念仏の教えに浴しながら本当の念仏に徹しきれずにいる自力執心の人々、後世など問題にせず、専ら現世にとらわれた人々。そういう人々に、「わざわざむこうから来迎して浄土へ導いてくれる」という十九願を説いて誘引し、その後第十八願へと導かれるのである。その為に「観経」が説かれ、宗祖が「化身土巻」を設けられたのである。いいかえれば、この「化身土巻」なくしては、真宗の「教行信証」は実践的には実現しないのである。
◎第十九願(至心発願の願)
設我得仏十方衆生発菩提心修諸功徳至心発願欲生我国臨寿終時仮令不与大衆囲遶現其人前者不取正覚
たとい我仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、諸(もろもろ)の功徳を修し、心を至し発願して、わが国に生まれんと欲わん。寿終(じゅじゅ)の時に臨んで、たとい大衆と囲遶(いにゅう)して、その人の前に現ぜずば、正覚を取らじ
(意訳)私が仏になったとき、すべての人々がさとりを求める心をおこして、様々な功徳を積み、心から私の国に生まれたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしは多くの聖者とともにその人の前に現れよう。そうでなければ、私は決してさとりを開くまい。
◎観無量寿経の顕彰隠密の義
観無量寿経のあらすじ
王舎城の町を治めていた頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)と、王妃・韋提希(いだいけ)
との間には、阿闍世(あじゃせ)という一人の王子がありました。
実は王子が生まれる前、王と王妃は占いで言われていました。「ある仙人が王子として生まれかわるでしょう」 ところが待ちきれぬ王は仙人を殺してしまい、仙人は復讐を誓いながら死んでいきました。そして阿闍世王子が生まれ、復讐をおそれた王は一度だけ、王子を高い所から産み落として殺そうとしましたが、王子は死なず、そのまま成長しました。
ある時、調達(じょうだつ)(ダイバダッタの事)が阿闍世王子の生まれの秘密をばらし、こう進言しました。「王を殺して、王位を奪わなくてはいけません。」 秘密を知って悲しみにくれた王子は、王を牢に閉じこめ、飢え死にさせようとしました。
韋提希は、牢中の王に飲食を届けました。見張りにみつからぬよう、衣服の飾りや冠にぶどう酒を詰め、身体にも食べ物を塗った上に服を着て、届けました。また王の心中を気遣ったお釈迦さまは、弟子を牢につかわして教えを授けました。悲嘆にくれていた王も、身心ともに癒されていきました。
それを知った阿闍世王子は怒り狂い、剣を抜いて、自分の母である王妃を殺そうとしたのです。そこに王子の臣下二人がいさめました。「昔の書物を見ても、母を殺すという最悪の罪を犯した王はありません。どうかおやめください。」 そこで王子は反省し、母を殺すのはやめて、別の牢に閉じこめたのでした。
そのとき、弟子の目連と阿難を引きつれて、お釈迦さまが韋提希の牢に現れました。韋提希はお釈迦さまに懇願しました。「どうか私を、苦しみのない世界へ連れて行ってください」
そこでお釈迦さまは口を開きました。口からは、いろいろな仏の国の姿が韋提希に説き出されました。その説法に韋提希は、それらの国々を目の当たりに見たのでした。中でも阿弥陀仏の国である極楽の姿が韋提希の胸に強く迫りました。
「どうすれば阿弥陀仏の極楽に行けるのですか。」その問いに、釈迦は定散二善の教えを説いていきます。
●観無量寿経には顕彰隠密(けんしょうおんみつ)の義があるという。
顕は、文の表面に見える意味
彰隠密は、文の裏に隠された密かな意味 ということ。
●顕
顕とは定善、散善の様々な善を顕すものであり、浄土往生を願わせるために示された善である(要門)。
韋提希夫人に対し、お釈迦様は、まず定善を説かれます。定善とは、心を静めて一つの事に専注する事である。
まず、日想観から始めます。沈んでいく夕日を眺めて心を静寂にして、雑念、妄念を解き払っていきなさいという観法を説かれます。
次に水想観。水面を眺めて、その揺れ動く水の表面を水平に保って、それを氷の世界と思いなさいと。
その後、地想観・・・と十三通りの観法を説かれる。
次に、それが出来なかった人の為にと、散善を説かれる。これは散漫な心のままで、ともかく悪を廃して善いことを修める事である。
人間を上品上生(じょうぼんじょうしょう)、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生と九通りに分類して、そしてそれぞれ徳目を決めて「廃悪修善」(はいあくしゅぜん)の説法をされていく。
これが観無量寿経の表に説かれている顕の意味である。
●彰隠密
十三の観法を釈迦が説いて、韋提希はそれに
従って順番に修行するも、第七華座観のところで「もうできません」とギブアップして頭を下げられます。すると、上からお釈迦様の声がします。「汝がために苦悩を除く法を分別し解脱したもうべし」、私があなたのために苦悩を除く法を分別し説きましょうという声がし、韋提希がふと頭を上げると、空中に阿弥陀仏が立っておられました。
空中に立っていた阿弥陀仏が何を物語っているかというと、韋提希が他力に出会ったと言うことをあらわしています。
また、散善を説いて行き、下品下生の人に、「汝よくこの語を持て。この語を持てというは、すなわち無量寿仏の名を持てとなり。」と言ってお念仏をおすすめになっているのです。
つまり、釈迦は、わざわざ定善、散善という難しい修行方法を説いて、「どうだ、やれますか。やれるならやってごらんなさい。」といわれる。そして、凡夫の代表である韋提希が私には出来ませんと頭を下げたその時に他力に気づかれたのであります。凡夫のこの私に、他力に気づかせお念仏の道に進ませる、これがこの経の隠密の意味である。(参考 ビハーラ往生のすすめ 田代俊孝先生)
◎第二十願(至心回向の願)
設我得仏十方衆生聞我名号係念我国植諸徳本至心回向欲生我国不果遂者不取正覚 たとい我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を聞きて、念をわが国に係けて、諸の徳本を植えて、心を至し回向して、わが国に生まれんと欲わん。果遂せずば、正覚を取らじ
(意訳)私が仏になったとき、すべての人々がわたしの名号を聞いて、浄土をひとすじに思い、仏がたの徳の名の本であるその名号を称え、心を励まして、その称える功徳により浄土に生まれたいと願うなら、その願いをきっと果たしとげさせよう。そうでなければ、私は決してさとりを開くまい。
◎阿弥陀経の文
我不可以少善根福徳因縁得生彼国聞説阿弥陀仏執持名号
少善根福徳の因縁を以てかの国に生まるることを得べからず。阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持せよと。
(意訳)わずかな功徳しかない自力の行によって、浄土に生まれることはできない。阿弥陀仏について説かれるのを聞き、その名号をしっかりと心にとどめよ。
◎阿弥陀経の顕彰隠密の義
●顕
釈尊は、衆生は念仏以外のどのような善を修めてもわずかな功徳しか積めないとして、人間のなす一切の諸行をけなしてこれを退け、自力の念仏(真門)を説き示し、第二十願で説かれた自力の一心をおこすようにと励まされた。
● 彰隠密
阿弥陀経は無問自説の経と言われ、人の問に答えられたのではなく、自らその本懐を説いた経である。釈迦は弘願真実を説くのを本懐とする。その立場から逆に考えると阿弥陀経の中に出てくる「一心不乱の念仏」も、他力念仏の法を説かれたものであって、これが釈迦の本意である、それがこの経の隠密の意味である。
阿弥陀経の経末には、「難信之法」と示されている。これは、大経の経末に「信楽受持難中之難」と説かれているのと同じである。また、六方の砂の数の仏方は褒め称えられる事からしてもこの阿弥陀経の念仏は他力の念仏を顕しているものと断言できる。
◎三経一致
三経の大綱、顕彰隠密の義ありといえども、信心を彰して能入とす。
(意訳)浄土三部経の大綱はその説き方には顕彰隠密の意味はあっても、その究極のところは他力の真実信心を明白にして、この信心にいらしめるところにある。
◎三願転入
(十九願から二十願、そして十八願へと転入していく事を示す)
ここを以て愚禿釈の鸞、論主の解義(げぎ)を仰ぎ、宗祖の勧化に依りて、久しく万行諸善の仮門(けもん)を出てて、永く双樹林下(そうじゅりんげ)の往生を離る。善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発(ほっ)しき。しかるに、今特に、方便の真門を出でて、選択(せんじゃく)の願海に転入せり。速やかに難思往生の心を離れて、難思議(なんじぎ)往生を遂げんと欲う。果遂(かすい)の誓、良(まこと)に由(ゆえ)あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳の報謝のために、真宗の簡要をひろうて、恒常(ごうじょう)に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特(こと)にこれを頂き戴(たい)するなり
(意訳)このようなわけで愚禿釈親鸞は、天親菩薩の「浄土論」のご解釈を仰いで、また、善導大師のお勧め御教化によって、ようやくにして定善、散善の行、いろいろな善を修することによって往生すると説く要門を出ることができた。そして永く双樹林下往生(第十九願の往生)を離れる事が出来た。
ともあれ、万行諸善を修する自力の行をすてて、あらゆる善根の本であり、万徳の本である阿弥陀仏の名号、すなわち念仏を自分のものとして往生しようという第二十願の真門に入って、念仏によって往生しようとする心をおこしたのである。
ところが、これも凡夫自力では不可能であることを知らしめられた。思ってみれば、第十九願、第二十願は私の自力根性を棄てしめる弥陀大悲の方便であったのである。
私はここに方便の真門を脱却して、弥陀の選びに選んでくだされた本願の念仏の大海に転入することができたのである。今こそはっきりと第二十願の難思往生の主我性の根性を離れて、我々の思議を絶した念仏にまかしきった往生、すなわち念仏を自己の善根とするような根性を棄てて、念仏そのものに全托して、念仏そのものになりきった第十八願の念仏の世界に生きようと決断したのである。
思えば自力根性の強い私をまず第十九願へと導き、それの不可能を知らしめてここに第十八願の絶対の他力念仏へと導いて下され如来のお心の深さを思わずにはおれない。
第二十願に入ったなら必ず最後は第十八願へと導いて弥陀の浄土へ往生せしめずばおかないという果遂のお誓いもここにいたってなるほどと合点せしめられるのである。
ここに私は広大無限な弥陀の本願海に永遠に生かされて、はじめて弥陀の御恩の深さを思い知らされたのである。この最高の功徳を報謝するために、浄土真宗の教えの簡要をひろい集めて、常に不可思議の名号の功徳の大海を讃えたいと思う。私はいよいよこのみ教えをよろこびいつくしんで、これを仰ぎ戴きたいと思う。
第九編 顕浄土方便化身土文類(末)
化身土巻は、二部に分かれている。後半は邪教、偽教を批判した文となっている。
◎仏教者の態度
仏に帰依せば、終にまたその余のもろもろの天神に帰依せざれと(涅槃経)
(意訳)仏に帰依する以上は、どこどこまでも仏以外のいろいろな天や諸神に帰依してはならない
まず、仏教者の態度の大原則を述べた。これから後は、色々な教典を引っ張り出して、その真偽を決定しながら、邪教、偽教を批判しつつ、正しい念仏の道に転入しようとされる。(詳細については省略)
(解説)我が国において仏教は、伝来当時から生死を越えるといった生死解脱の法としてよりも、祈祷的性格を与えられ、国家安泰、攘災招福、五穀豊穣等の現世の利益を来たらしむる法として受けいれられたようである。いわば、よりすぐれた外国の神として受け入れられたようである。仏教のそのような性格は、飛鳥、奈良、平安、鎌倉と、その時代によって形を変えてはいるが、基本的には、一貫として流れている性格である。そういう現世を祈る考えは、時代が混乱すればするほど強くなったと思われ、宗祖が生きていらっしゃた鎌倉時代の混乱期においては、今の私達が想像できない程、それらは強いものがあったと思われる。そういう中にあって、宗祖は邪教や迷信に迷わされ右往左往する衆生を見て嘆き悲しまれたのだと思う。そして彼らの物質的現世利益欲求を否定するのは簡単だが、それでは衆生を本当に救う事はできない。簡単に否定するのではなく、それを真正面から受け止め、真実の仏教である浄土真宗に転入せしめようとされる意図ががあったのではないかと考えられる。それがこの化身土巻末であり、現世利益和讃であると思われる。
(行信教校で書いた論文より抜粋)
第十編 後序
竊(ひそ)かにおもんみれば、聖道の諸教は行証ひさしく廃(すた)れ、浄土の真宗は証道いま盛りなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏(くら)くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路をわきまうることなし。
ここを以て、興福寺の学徒、太上天皇、今上、聖歴、承元丁(ひのと)卯(う)の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿(いかり)をなし怨(うらみ)を結ぶ。これに因りて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考えず、猥(みだり)がわしく死罪に坐す。或いは僧儀を改めて姓名(しょうみょう)を賜うて遠流(おんる)に処す。予はその一なり。しかればすでに僧にあらず、俗にあらず。この故に禿(とく)の字を以て姓(しょう)とす。空師ならびに弟子等、諸方の辺州に坐(つみ)して五年の居諸(きょしょ)を経たりき。
皇帝(佐土の院と頭註)聖代、建歴辛末の歳、子月の中旬第七日に、勅免を蒙りて入洛して已後、空、洛陽の東山の西の麓、鳥部野(とりべの)の北の辺、大谷に居たまひき。同じき二年壬申寅月(いんげつ)の下旬第五日午の時に入滅したまう。奇瑞、称計すべからず。別伝に見えたり。
(意訳)私なりに考えてみると、聖道門のそれぞれの教えは、行を修めさとりを開くことがすたれて久しく、浄土真実の教えは、さとりを開く道として今盛んである。
しかし諸寺の僧侶達は、教えに暗く、何が真実で何が方便であるかを知らない。朝廷に仕えている学者達も、行の見分けがつかず、よこしまな教えと正しい教えの区別をわきまえない。このようなわけで、興福寺の学僧達は、後鳥羽上皇、土御門天皇の時代、承元元年二月上旬、朝廷に専修念仏の禁止を訴えたのである。
天皇も臣下のものも、法に背き道理に外れ、怒りと怨みの心をいだいた。そこで浄土真実の一宗を興された祖師源空上人をはじめ、その門下の数人について、罪の内容を問うことなく、不当にも死罪に処し、あるいは僧侶の身分を奪って俗名を与え、遠く離れた土地に流罪に処した。私もその一人である。だからもはや僧侶でもなく俗人でもない。このようなわけで、禿の字をもって自らの姓としたのである。源空上人とその門弟達は、遠く離れたさまざまな土地へ流罪となって五年の歳月を経た。順徳天皇の時代、建暦元年十一月十七日、朝廷から許されて、源空上人は都にお戻りになり、それ以降は、京都東山の西の麓、鳥部野の北のあたり、大谷の地にお住まいになった。そして同二年一月二十五日正午にお亡くなりになったのである。その時、不思議で尊い出来事が数々あった。その事は源空上人の別の伝記に示されている。
しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉(かのととり)の 暦、雑行を棄てて本願に帰す。元久乙丑(きのとうし)の歳、恩恕(おんじょ)を蒙(こうむ)りて選択(せんじゃく)を書しき。
同じき年の初夏(そか)中旬第四日に「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南無阿弥陀仏、往生之業、念仏為本」と「釈綽空(しゃっくう)」の字と、空の真筆を以て、これを書かしたまひき。同じき日、空の真影申し預かりて、図画(え)したてまつる。
同二年閏七月下旬第九日、真影の銘に、真筆を以て「南無阿弥陀仏」と
「若我成仏十方衆生、称我名号下至十声、若不生者不取正覚、彼仏今現在成仏、当知本誓重願不虚、衆生称念必得往生」
の真文とを書かしめたまう。
(意訳)ところで愚禿釈の親鸞は、建仁元年にそれまでの自力の行を棄てて他力本願に帰した。元久二年、源空上人のお許しを頂いて選択集を書き写させて頂いた。
同年四月十四日に「選択本願念仏集」という内題の字と、「南無阿弥陀仏、往生之業、念仏為本」(南無阿弥陀仏、浄土に往生するための業は念仏をもって本とする)という文字と「釈綽空」の字とを、源空上人自らの手をもって、私の書写した書物にお書き下さった。
そして同じ日、源空上人の御絵像をお貸し頂いてこれを、描かせて頂いた。
同二年閏七月二十九日には、この御絵像の銘に、上人の御筆で、「南無阿弥陀仏」と
「もし私が仏に成ったならば、あらゆる衆生が私の名号を称えて、たとえわずか十声でもよい、浄土に生まれないような事があれば、私は仏とならない、と。ところが、かの仏は現在すでに仏になっておられる。これによってみればかの仏の本願は決して虚しいものでないことがわかるであろう。人々が称名念仏するならば必ず浄土に往生することができるのである。」(善導・往生礼讃)
という真実を示した文をお書き下さった。
◎聖人の到達点
慶哉樹心弘誓仏地流念難思法海
慶しいかな心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す」
(意訳)まことによろこばしいことである。師の導きによって今や私は心を仏様の大悲の大地にしっかりとうち樹てている。私は、思いはかる事も出来ない広大不可思議な仏法の大海の中に、今生かしめられている
(解説)この言葉が、凡夫親鸞聖人の到着点であり、「教行信証」の到達点である。
◎結びの文
真言を採り集めて往益を助修せしむ。いかんとなれば、前(さき)に生まれん者(もの)は後を導き、後に生まれん者(ひと)は前を訪(とぶら)え、連続無窮(むぐう)にして、願わくは休止(くし)せざらしめんと欲す。
無辺の生死海を尽くさんがための故なり。(安楽集)
(意訳)如来の真実の言葉を 採り集めて、往生の利益を修めるように助けたい。何故かといえば、そのためには、先に生まれた者は後からくる者を導き、後に生まる者は前の人をたずねて、願わくば、それがいつまでも連続して中途で途絶えることのないようにしたいものである。はてしなき限りなき生死の大海に苦しむ者を汲み尽くさんがためにと願うものである。(安楽集)
もし菩薩、種々の行を修行するを見て、善・不善の心を起こすことありとも、菩薩みな摂取せんと。(華厳経)
(意訳)もし道を修行する人がいろいろの行を修行するのを見て、これに随喜して善い心をおこす者もあろうし、また誹謗や怒りの不善の心を起こす者もあるかもしれないが、その善・不善にかかわらず、菩薩はこれを縁としてこれ等の人たちをすべて救うであろう (華厳経)
ご注意
この解説書は、下記の様な書物を引用、または参考にして副住職が、編集致しました。教行信証を読んだ事の無い方が、親鸞聖人お言葉に少しでも接していただければと考え編集しました。引用、参考させて頂いた方々に深く感謝申し上げると共に、本格的に勉強される方は、その先生方の本自体を読んで頂くことをお勧めします。
浄土真宗聖典 本願寺出版部
教行信証の意訳と解説 高木昭良著 永田文昌堂
講解 教行信証 星野元豊著 法蔵館
顕浄土真実教行証文類(現代語版)本願寺出版部
ビハーラ往生のすすめ 田代俊孝著 法蔵館
アジャセ王の救い 鍋島直樹著 方丈堂