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称専寺新報HP版




 
 
秋季・門信徒永代経法要
    講師:西本願寺布教使 福岡県嘉穂郡 願照寺住職              原中秀峰師
  ◆11月24日(木)昼1時半、夜8時より
  ◆11月25日(金)昼1時半 

聴診記

●他力に安んじて
先日、龍谷大学の鍋島教授が宮崎に来られた折、私の拙本の出版記念にと色紙をくださった。そこにはこう書かれていた。
「他力に安んじて 人事を尽くす」
 諺としては、「人事を尽くして天命を待つ」というのが本来の言い回しであるが、先生の言葉は、その考え方を大転換してある。この言葉を味わって見たい。
 
 これまで医学は、あらゆる病気に立ち向かいそれに打ち勝ってきた。日進月歩、様々な新薬が開発、新しい治療法も確立され、病気で苦しむ沢山の人が健康を取り戻してきた。しかしその素晴らしい医学を使っても今尚、助ける事が出来ない人、死んでいく人達が沢山いる。
 私自身、重傷な患者さんがいれば医師として薬を投与し、食事が取れなければ点滴や鼻チューブから栄養を送り込み、血圧が下がれば昇圧剤を注射し、心臓が止まれば蘇生を試みてと、何とか患者さんを助けようと努力する。しかし残念ながら助ける事が出来ずに落ち込む事が多々ある。その度に医学に限界を感じ、そして私の行う「救いの行為」は所詮、不完全なものだなと痛感する
 一方、信仰の世界から味あわせて頂くと、仏様は、全ての人を等しく救い取ってくださる。健康な人は勿論、病気の人、死んで行く人も「それでいい。私が間違いなく救う」と、そのままを受け止め、抱きとってくださる。更に仏様は、患者さんを十分救う事の出来ない不完全な私をも「そうかそうか」と抱きしめてくださる。
 つまり老・病・死に苦しむ患者さんも、それを救おうとする私も、共に仏様の大慈悲の中に救われているのだ。その救いの中にあるから私は、不完全ながらもかろうじて医療行為を続けていけるのである。
 
西本願寺の御門主は著書「愚の力」の中でそこの所を
「阿弥陀如来の慈悲に救われていると知ったものが、自分の不完全さから目をそらさず、自らができることをする。私の行為が慈悲なのではなくて、阿弥陀の慈悲の中で、今何ができるかということです。不完全な存在であるという自覚のもとに出来ることからやるのです。」
と語られている。 
 このお言葉こそ、色紙に書かれた「他力に安んじて 人事を尽くす」の意味する所であろう。
 目の前の患者さんさえ十分助ける事の出来ない私であるが、阿弥陀の大慈悲(他力)に抱かれて、自分に出来ることをこれからも精一杯人事を尽くしていきたいと思う。
                             (担当 副住職 内科医師)

休刊中