正典

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正典住職と称専寺(摂護寺との関係)
 江戸時代、薩摩藩は、念仏禁制で、浄土真宗は厳しく弾圧されていた。それが明治9年に解除されると、本願寺は、鹿児島市内に仮説教所(現在の鹿児島別院)を建て、その所長に佐々木鴻煕師(福岡県妙円寺生れ・正典の祖父に当たる)を迎えた。説教所は鴻煕師の活躍で明治11年には信者は16万戸に達した。その後、鴻煕師は、都城に摂護寺を建立し、開基住職となった佐々木(右写真)





                            
                           


佐々木鴻煕師の坊守道子は小倉市西蓮寺、黒田家の生まれ。二人の間に長男正煕師(正典の父)が生まれたが、虚弱でその成長が危ぶまれたため、黒田家から芳照師(道子の甥)を養子として迎え第二代住職とした。(右写真)








 芳照師は、本願寺の光瑞門主に才能を認められ、北米開教総長等、重職を歴任した。芳照師の坊守輝子は、高鍋秋月藩十二代種繁の娘で、幼少時より祖父の秋月種樹(たねたつ)に育てられた方である。これにより、摂護寺と秋月家の間に親戚関係が出来たのである。

                    秋月輝子様        
                                      

 成長が危ぶまれた初代住職の長男、正煕師は成長と共に健康となり、昭和5年第三代住職となり、坊守綱子(福岡県宝福寺生れ)との間に、7男1女を恵まれ100歳の長寿を保った。師も本願寺の要職を歴任し、昭和23年には本願寺宗務総長にも就任した。(右写真)
 





                                        


さて、称専寺十三代量性師には正業という男児がいたが、2歳で亡くなられた。そこで、秋月家の関係で 正煕師が高鍋を訪れたときに、量性師が称専寺の行く末を正煕師に頼み込まれた。それが、称専寺と摂護寺との関係の始まりであった 正煕師は量性師の依頼を受け、当時、摂護寺の天竜仏教学院の教師であった岩崎龍圓師を大正15年、称専寺の第十四代住職として送り出した。(右写真)





                                           
 しかし、龍圓師夫婦にも子供が無かった。それで、龍圓夫婦になついて称専寺について来ていた正煕師の四男、正邦師を跡継ぎにする予定でいた。 正邦師は京都龍谷大学卒業後、中国青島の医学専門学校に再入学、将来は、医師であり僧侶であるという、二足のわらじをはく事を目指していた。しかし、昭和18年病没してしまった(右写真)
(命日の9月16日は、現在の住職、正弘の誕生日であり、同じく、医者と僧侶を志した所も同じ、顔も似ており、不思議な因縁を感じる)

                          

途方にくれた龍圓夫婦であったが、称専寺は摂護寺が守ってやらねばならないと言う正煕師の意向を受け、七男、正典師(右写真)が昭和28年入寺、15代住職に就任した。
 以上のように、摂護寺と称専寺は、深い関係で結ばれ、現在も交流が盛んなのである。